概要

「ええじゃないか」は、江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿・四国・東海地方などで発生した民衆の集団的熱狂現象である。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という噂が広まると、人々は仮装して町へ繰り出し、「ええじゃないか」という囃子言葉を連呼しながら集団で踊り歩いた。この時期はちょうど大政奉還(慶応3年10月)から王政復古の大号令(同12月9日)へと至る、明治維新直前の政治的激動期にあたる。毎年決まって行われる祭礼ではなく、幕末という特定の時代状況のなかで一度だけ燃え上がり、そして消えた歴史的社会現象である点が、ほかの年中行事と大きく異なる。

歴史と由来

御札が降ると、人々は藩に届け出たうえで屏風を立て、笹竹で家を飾り、酒や肴を供えて町ぐるみで札を祀った。名古屋では降札後の祭事が7日間に及び、その間は日常生活が麻痺したと伝えられる。伊勢神宮の御札が降って人々が伊勢へ向かう「お蔭参り」とは異なり、「ええじゃないか」では地域で信仰される社寺の御札が降ったとされ、その土地で祭祀が営まれることが多かった。なお「お蔭参り」自体は、元和3年(1617年)以降およそ60年周期で繰り返された現象で、明和8年(1771年)には300〜400万人、文政13年(1830年)には3か月で約500万人が伊勢に殺到したと記録されており、「ええじゃないか」もこうした民衆宗教の系譜のなかで理解されている。

発祥地をめぐる論争

「ええじゃないか」の発祥地については、現在も定説がない。古くは岩倉具視の『岩倉公実記』が「八月下旬に京で始まり、十二月九日の王政復古発令の日に止んだ」と記し、福地源一郎や『西宮市史』などの史料とあわせて京都・京阪発祥説の根拠とされてきた。一方、戦後の研究では東海地方発祥説が台頭し、藤谷俊雄(1968年)は尾張・慶応3年8月説を、その後の研究者は静岡県磐田市・愛知県豊川市・豊橋市など、より早い時期・より東の地点を相次いで主張した。豊橋市の牟呂八幡宮神主が残したメモ「留記」には慶応3年7月14日の「御祓い」が記されており、これを発祥とみる説もある。ただし東海地方では「ええじゃないか」という掛け声を伴わない「御札降り」のみが共通する地域も多く、掛け声を要件とすれば京都発祥説に、御札降り全般を含めれば東海発祥説に傾くなど、何をもって「ええじゃないか」とするかによって結論が変わる。本データベースでは特定の発祥地を断定せず、複数の説が併存している現状をそのまま記す。

性格をめぐる解釈

その目的や性格についても見解が分かれてきた。歌詞に政治情勢が織り込まれたことから、世直しを求める民衆運動と解釈するのが一般的である。歌詞は各地で作られ、「今年は世直りええじゃないか」(淡路)のような世直しの訴え、「長州がのぼた、物が安うなる」(西宮)のような政治情勢を歌うもの、さらには性の解放を露わにしたものまで、多様な内容が含まれていた。研究史をたどると、羽仁五郎はマルクス主義の立場から、王政復古のクーデターがこの混乱に乗じて行われたことに着目し、背景に西郷隆盛らの策謀を見て、結果的に王政復古の「煙幕」の役を演じさせられたとしてその意義を低く評価した。これに対し井上清は、封建制の矛盾の鬱積が民衆を行動に駆り立て、それに倒幕派が乗じることで権力側を麻痺させたとして、むしろ積極的に評価した。倒幕派が人心を撹乱するために仕組んだ陽動だったという当時の噂も伝わるが、福地源一郎自身が「その真偽は分からない」と書き残している。このように「ええじゃないか」は、自然発生的な民衆運動とみるか政治的に利用された現象とみるかで評価が大きく揺れており、単純な断定を避けるべき主題である。

関連する民俗と位置づけ

「御札降り」「ええじゃないか」「お蔭参り」は、しばしば一体のものとして語られるが、本来は別個の現象である。近畿や四国などの西日本では「ええじゃないか」「よいじゃないか」という掛け声が顕著だが、東海地方では掛け声を伴わず「御札降り」のみが共通し、御鍬祭りや御蔭参りと結びつけて解釈される傾向がある。文化現象としては、世界各地でみられる集団的熱狂や、伊勢踊りといった先行する民俗芸能との連続性も指摘される。一度きりの歴史的現象であるため特定の開催季節を持たず、本データベースでは季節分類の対象外として扱う。幕末の社会不安と民衆エネルギーが噴出した象徴的な出来事として、日本近世史・民俗学の双方で重要な研究対象であり続けている。


出典・関連リンク

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